2015/01/27

部品値段を書き出してみて感じたこと、なんで、いまだ、今さら、500Eか? やっとわかったか?

 毎年、年末に書く、
 まとめ的なこと、前に書いた、なぜ500Eかについて、
 ちょっと、おくれて、新年またぎましたが、旧暦の新年、春節には間に合いました。

 
四年前、2011年に書いた
20年たって振り返り見る500Eの魅力ってなに? (1) 目に見えるものと 見えないもの

翌年、2012年に書いた
500Eにのるということ(3)―趣味性の高い実用車にいくらかかるの?―

 ここでも、今年と同じ、めったにやらない、数字の書き出しをして、相当ストレスを感じながら思っていました。

 私が、値段、価格をあまり書きたくない理由としては、先に書いた趣味性、道楽の部分、粋、無粋のこともあるのですが、
 それ以外に、値段が先歩きして、ものの本質が そのものの価値が歪む,見えなくなると思う理由があります。

 私は、マーケットの中で生きているためか、ものの値段なんてものは、交換財にしか過ぎない貨幣の多寡で実はフィクションにすぎないと思っている人間です。
 (乱高下する為替レートや紙屑になる国債、バブルの土地や株価、チューリップのバブルを思い出してください。)
 
 
 
 
 

 新車価格が高かったから、ベンツだから『高い もしくは価値がある』というのは、
 これを、特定の角度からみた、貨幣の多寡 他人の評価付けベースでしかないと思っています。
 ここで既に他人の評価尺度を借り受けています。

 
 私が「ポルシェラインだから」、「ポルシェが作ったベンツだから」というのが嫌いなのは、
 
 
 同じく、他人の評価尺度に加えて、更に他人が作った表現を借り受けてる二重の自己感覚の否定に、さらなる寒気を感じるからでしょう。
 
 

 じゃあ、絶対的な物理的比較、
 現行車との価格含めた物理的、性能の複合比較もありうると思います。
 ただ、それだけじゃないと思うんですね。

 他人の評価尺度借りないで、自分の感覚を数値化、あきらかにしたい。
 実は、私は、こんなこと、何年も前から、ぼーっと、ずーっと考えています。

 要は、自分が感じる主観的価値の尺度基準を知りたいと、今でも、モガイテいます。

 もし、この土俵、主観的価値を比較するとしたなら、

 それは、かけた時間を時間コストで足し引きしたり、満足度を乗除しなければ、比較できないなと
 気が付きました。私にとっては、使ったお金、値段、価格のサマリーじゃないんですね。

 こんな抽象的なこと、なんとか、数値化できないかと考えていますが、
 現在の時点での、仮、として、私にとっての、バランス、自分にとっての、主観的、本質的価値とは、

  ((現時点での第三者評価額+これまでかけた時間、努力)×満足度) ÷ 性能比較指数

 になると思っています。

 この場合、「性能比較指数」は、他車と比べて、特定の条件で、遅ければ、その分、
 数値が大きくなりますし、速ければ、小さくなります。
  
 なので、仮に、性能比較指数が、同じなら、ものの評価額が0であっても、
 掛けた時間、苦労した時間、過ごした時間の分だけ
 おおきくなりますし、

 逆に、かけた時間が多く、満足度が高かったとしても、遅ければ、極小化します。

 これが、より高い性能を求める理由です。
 
 性能、速さを比べるために、その手段の一つが、ドラッグレースであったり
 シャーシダイナモ、もしくは、最高速でもいいし、特定場所でのタイム、加減速でも、Gの大小でも
 物理的性能でも、いいと思います。

  これらが、[なぜ、500Eなのか]、という私の答えの一つになるものだと思っています。

わかりずらい、書き方ですが、掛けた時間、自分にとっては少なくない努力、勉強と、
 性能の微分、積分解が多いからです。
 要は、ある程度、長く続けていると、もう他に乗り換えられない、
 これで、相対的性能がさらに良ければ、さらに良し、でもがいています。
 
 実は、私にとっては、正直、別に他の車種でも良かったわけです。
 これ言うと、がっかりする人もいるようですが、申し訳ないが、これが真実です。

 ただ、それが、ある一瞬、良さそうに見えて、よーいドンで、始めて、

  これまで、莫大な時間、価値を投下した。 物凄く集中して
長時間継続して一つのことをひたすら考え続けた いまも そう
くる日もくる日も ずーっと


 その結果、現在価値より、はるかに肥大極大化した、かけた時間価値、これが、多いから、
 分子が大きくなり、それをより大きくするために、分母の「性能比較指数」を小さくしよう として、
 いるのだと思います。

 あー、なんか、ようやっと、良くわからなかった、自分の考え方の根本の整理がついたような気がします。