マツダの思い出 2 そういえば、大昔 面接に行ったことがあった
ステイホーム?の諸兄から連絡いただきました(笑)
みんな暇なのか?
マツダ、 イニシャルがMから始まりますが、
メルセデスには永遠になれない、東洋工業、もとは、コルク製造会社、オート三輪、軽自動車から
自動車製造に進化した進化系の広島名物”成り上がり”の会社です。
起死回生のロータリーエンジンは、今思うと、下手掴みのライセンス契約、
実用化で延命にはなったでしょうが、オイルショックや排ガスには、根本的な対処はできず、
合弁から 身売り話もでたり、結果としては、新車販売では、不運なエンジンだったんだと思います
前にも書きましたが、
マツダは、もともと免許取る前、高校生のときから、近所の中学のリアカーをかりて
解体屋から運んでエンジン買ってバラシてたし、
124(S124 サバンナRX3です(笑)でロータリーエンジンをいじっていたり、
P3000のプロダクションレースで、スポーツコーナーの方に親切に
助けていただいたりの、縁がありました。
それより古くも、まあ、実は、祖父が、ライセンス関係のことで、
いろいろあったようなんですが
そこの惣領が田舎から東京の大学にいったはいいけど、
勉強そっちのけで、ふらふらして、夜中はゼロヨンばっかりしてた頃のお話
きしくも、当時、マツダのビルがあったのと同じビル、
日比谷の大和生命ビルに事務所があった大先生と
家人が、どこぞで会食したさいに、わたしの素行不良が話題にのぼったそうです(汗)。

「勉強もしないで、やかましい三流メーカーの車、マツダをいじって カミナリ族の真似事」等の
悪評が 大先生の耳にはいったようで
アパートで彼女と寝てたら、とても怖い人達が家に押しかけて来て、日比谷公園を見下ろす
事務所につれていかれました。
「そんなにマツダが好きなら、今から面接にいけ!」 とかいわれまして
返事は、オス、押忍で、急に面接にいくことになりました。
リクルートスーツも着ないで、一人だけ学生服着て、面接に赴くことになりました。
まあ、それは、それは、世間知らずの、生意気盛りの学生、それまで、大コンサルで
夏休みにアルバイトしてたわけでしたから、知りもしないのにそこで見聞きした知識、
いずれ、自動車メーカーの多くは淘汰されるとか、
自動車なんて、大量消費財、コモディティになる
ブランド力のない安売りメーカーは生き残れないとか
虎の子のロータリーについて、特許ライセンス受けたこと自体が失敗とか、
負債比率がどうしたとか、物品税廃止で輸入車が増えるとか
海外展開、現地生産ノウハウの少ない地元志向
会社は円高で滅びる などと、小僧が、聞いた知識で、好き放題行って帰ってきました。
当時、80年代おわりでしたが、今振り返って、まあ、おおくは外れてなかったと思います。
そんななかで、
今でも覚えてますが、
「何か最後に質問はありますか?」といわれたので、
同社のたしか人事担当の役員が新卒何百人を採用!と意気込んでいたお方に対して、
「安定雇用という反面、実は長期では何も考えていないように思います」
「その場しのぎの、採用無策だと思う。なにより将来が心配です」
等といったら、顔面 マツダブルー(当時)になって怒られました。
こちらは、世間しらずで、怖さも知らないし
常務と専務 どっちが偉いのかも知らない アホ学生なわけで
ものすごく生意気なことを正論で 冷静に、お返した記憶があり、
そんな珍しさが良かったのか、周りの役員には、それは、それは、
大うけして、大笑い、してたからなのか、わかりません。
面接のあと、N先生のお口添えがあったからでしょうか、
学生服で腹を空かせて、貧乏そうに見えたのか
「なんでも遠慮しないで喰え!」 というのでといわれたのを幸いに、総理大臣がいくような
築地の料亭まで連れてってもらって、ごちそうになったことがあります。
(スポーツキットのエンジン一台分くらいごちそうになりました! 今でも良い思い出です)
絶対、落ちた、と思ってたら、
何日かたって、なぜか、内定をいただいた記憶があります。
でも、まじめなところ、とても、とても、で
一、ファン、ユーザーとして応援していきたいと、丁寧にお断りしました。
いま思うと、時間とって面接してくれた方、思うと、とても、申し訳なく思います。
その当時、面接していただいた技術畑の中堅だった方、かっこいい人いましたね
正直、外見はダサいおやじだったのですが、説明説得の仕方とか、こういう人がいるから、
クルマができるんだなーと思ったことがあります。
当時、そこの会社があった同じ内幸町の旧大和生命ビル、
昔々、鹿鳴館が立ってたところから、
最近、別の場所に、移転したそうです。
その後、 八丁堀から通勤快速のヘアライン号を運転して、
その前を とおるたびに思いだしてました。